赤岩を動画と写真でご紹介
動 画
赤岩のイベントを動画でご紹介
赤岩神社秋季祭典 毘沙門天祭
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どんどん焼き
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写 真
赤岩の昔の写真です。大きく見たい写真を左の写真から選んで下さい
昭和30年代の赤岩遠景。赤岩という集落名の由来は・・・岩山が西日を浴びて赤く映えるから、といわれている。また、中世から戦国時代の天然の要害としての赤岩が偲ばれる。
ツツンジャー(つつじ沢)の水車。上流と下流にも 1つずつ、計 3つの水車があった。この土橋のたもとは現在、炭焼小屋になっている。
関家のサンカイヤ。かつて赤岩 に4軒あった三階屋の 1つ。昭和59年の台風で屋根が北に飛んだ。左手前にはシミイドの井戸が見える。
昭和30年代のオテンマ(共同作業)の集合写真。前項のシミイド辺りの石垣修繕。皆さんの顔、雰囲気がまるで野武士のようだ!
六合農協の木炭車。石垣の石を運搬中か? 右手前の小屋は消防小屋。
石垣修繕のオテンマ風景。前項の道路反対側。
石垣修繕の様子。木組みの火の見やぐらの段の高いこと!
たばこ屋前の天皇坂。道普請で上(かみ)の方の道路をけずり、持ってきて盛ったあとか?
たばこ屋下の天皇坂。現在は蔵の腰板の高さまで道路が上がっている。
天皇坂を下りきったところ。丁張りも見え、石組み、道普請など村民だけでやっていた昔が偲ばれる。また、珍しい前兜型の富沢家も写る貴重な写真である。
現在の南部体育館前の道普請。篠原家の板塀も移動された。
白砂川と崖の上の六合村立南小学校分校。今はなきサンカイヤも見える。
昭和30年代のお祭り風景。上(かみ)の折り返し地点。道普請のあとのためか、ローラーを引いている子供が・・・。
山車を上(かみ)まで引っぱってきてのひと休み。今や老年期の面々の20代前半の血気盛んな青年団時代。
石垣が今より2段は高い。また、石垣上の桑の並木が懐かしい。
天皇坂頂上付近でのお祭り風景。それにしても、道がせまい。
天皇坂中途のお祭り風景(仮装行列)。後方のたばこ屋の前に、小さな繭乾燥小屋が見える。
天皇坂下のお祭り風景。この賑わい、この活気!石置屋根が廃されたり、気抜櫓が設けられたりしている。
赤岩神社前のお祭り風景。現在の消防小屋の場所にかやぶき小屋が見える。
赤岩神社前でのお祭りの集合写真。仮面の人物がだれであるか、ほぼ永遠の謎である。現在、最長老の人がチャップリンに扮している。
昔懐かしい中ノ瀬橋。毎年台風の増水で流されたが、2本のカラマツ(?)の丸太は端をロープで結わえられ、増水が治まったあと引っぱり上げられ再利用された。
昭和47年完成の南大橋。対岸の日影の国道側から見た工事風景。
昭和47年完成の南大橋。赤岩側から見た工事風景。
全長90メートル、川面からおよそ50メートル。場所打ち張り出し工法のドッキング?画像。当時、最先端の工法であった。
懐かしさ極めつき! のボンネット型の草軽バス。手前の鉄道線路は長野原(現長野原草津口)駅~太子(おおし)駅の太子線(長野原線とも)。踏切の場所は、六合地区大字日影中沢(ナカッツア)。
昭和20年1月から元山鉱山の鉄鉱石を搬出した太子(おおし)線は、27年から旅客線としても使われた。写真は27年開業日のもの。駅舎の右奥は鉄鉱石を貨車に積んだホッパー。右手前のトイレは現在も残り、公園の一部として利用されている。
中之条町六合支所のある小雨集落と沼尾集落の間に、かつてあった天狗トンネル。昭和31年の野反湖へのバス開通とともに取り壊されたものか? もったいないと思うのはたんなる感傷か。
野反湖はかつて野反池と呼ばれ、いくつかの池が点在する湿原だった。昭和28年着工、31年、ロックフィルダムが完成して野反湖が誕生した。現在は「ダム湖百選」にも選ばれ、六合地区の象徴的存在になっている。